「涙というものは、流した人を強くも優しくもする」
とは、2012年4月17日の朝日新聞に掲載されていた天声人語の一節である。
科学技術などは、あまたの悲劇に鍛えられ熟してきた。
そこにあるのは、明らかに人間愛である。
天声人語の執筆者は述べている。
「1世紀の後、福島の事故はどう語られよう。原発を鍛え直した試練、それとも人類が原子力をあきらめる端緒か。いずれにせよ、ただの不運に終わらせてはならない」
政府は14日、関係閣僚によるエネルギー・環境会議を開き、革新的エネルギー・環境戦略」を決めた。
「30年代に原発稼働ゼロを可能とする」との目標を盛り込み、3原則を設けた。
40年運転制限を厳格に適用、原子力規制委員会の安全確認を得た原発のみ再稼働、原発の新設は行わない、の3原則である。
原発ゼロを既定路線とする動きが進みつつある。
一方反対派は、
「熟議の足りない国民的議論をもってエネルギー政策の方向を決めることはあまりに危険」
「政府は、経済に対する悪影響がなく、国民生活を維持できると説明する責任がある」
「安易で情緒的な政治スローガンを掲げることは許されない」
として、国民の意見に従うことは国賊であるかのような発言を続けている。
たしかに、原子力発電を捨てることは経済活動に悪影響を与え、電気を潤沢に使える生活を捨てることに繋がる。
新しい戦略の先行きも不透明である。
しかし、国民が望んでいるのは、今までのような経済活動や潤沢にある電気をふんだんに使える生活を捨ててでも、放射能を持った汚染物で環境が汚されるような生活を変えたいということである。
自分の土地、自宅を放射能を持った物質で汚染され、帰ることができない人たちがいまだに何万人も存在し、これからも存在し続けるという悲しみを思うと、原発ゼロ政策を安易で情緒的な政治スローガンとして片付けることができるとは思えない。
既得権を守りたい余りに、国民の心情を踏みにじり政府を愚弄するのは、国を存亡の危機に陥れたかつての精神主義者に似ている。
涙を流し足りない人たちがいる。
(2012/09/17の記事を再投稿)