奥津に入る:吉井川の辺にたたずむ奥津温泉の紅葉風景

奥津には何度か訪れているが紅葉の季節はこれがはじめてであった。宿は名泉「鍵湯」で知られる奥津荘にお世話になっているのだが、その奥津荘の中庭を占拠する樹齢五百年を越そうかという大銀杏がある。色づくと周りまでも黄金に輝かせると聞いていたその風景をいつかは見たいと思っていたが、今回その想いを叶えようと奥津に入った。

奥津は、美作の国、岡山県津山市を20キロメートルほど北、中国山地の山渓、吉井川の辺にたたずむ静寂なところにある。美作の国は昔から多くの温泉が湧き出るところで、わけても、湯原・奥津・湯郷は「美作三湯」と呼ばれ、昔から多くの人々に親しまれていた。なかでも奥津は最近こそは道路が整備され入りやすくなったが、「美作三湯」の中で最も開発が遅れていたところである。そのため、大型バスが入るような大型旅館やホテルはなく、ゆったりとした時間を過ごすことができるところとなっている。

温泉の歴史は古く神話時代にまで遡る。八雲朝廷時代に少彦名命が地方を巡視した際に発見されたとの説があるが、大和と出雲を 結ぶ往復路とし交流した時期に温泉を発見したとも伝えられている。また、名だたる武将たちもこの湯に浸かり戦いの疲れを癒した。江戸時代の津山藩主森忠政はここに専用の湯治場を設けたといわれている。本格的な温泉旅館が建ち始めたのは大正時代からで、昭和に入ってからは歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめ多くの文化人が訪れている。

奥津荘は昭和3年の創業、津山藩主専用の風呂「鍵湯」があったとされるところに建つ。透明度の高い温泉が岩盤の間から自然に湧出し、そのなかに身を浸すと至福の時が得られる。津山藩主森忠政はここに別荘を建設し幾度となく湯治に訪れたのだが、他の者の入浴を禁じ浴室に鍵をかけた。そこから「鍵湯」と呼ばれることになったのだという。

奥津荘では玄関脇のラウンジで抹茶とお菓子で迎えてくれる。そのラウンジには版画家棟方志功の作品が飾られている。棟方志功も奥津を愛したひとりで、昭和22年から昭和28年頃度々この地を訪れ、ここで多くの作品を残している。

宿の規模は小さく、和室4室・洋室2室・露天風呂付離れ2室、合計でわずか8室。和風庭園を囲むようにして建つ木造の棟のどの部屋も、和風であれ洋風であれしっとりした風情が漂う。大人の宿として、小学生以下の宿泊は受け入れていない。もちろん、団体客の受け入れもない。静かに名湯を楽しむ環境が整っている。

大銀杏は目の覚めるような黄金色に彩られ私たちを待っていた。宿泊した部屋から眺める離れの屋根は黄色に塗り替えられたのかと見紛う程の落ち葉に覆われていた。大銀杏はどの部屋からも眺めることができるのだが、夜になるとライトアップされまた違った雰囲気を醸し出してくれる。

温泉は湯船の底から自墳するため、空気に触れる事無く温泉本来の自然の状態そのままの入浴が堪能できる。ラジウムを含んだアルカリ性単純泉で42.6度で湧き出るため、加熱加水は一切ない。まさに自然そのまま。湯船に入ると無色透明、無味無臭の「さらり」とした温泉が体の芯まで熱を運んでくれ、心地よいひとときを得ることができる。館内には「鍵湯」と「立湯」のほか、「泉の湯」と「川の湯」ふたつの貸し切り風呂があり、うれしいことに24時間予約なしで利用できる。

奥津荘の朝食は、吉井川の風景とせせらぎの中で頂く。日曜日の朝には、これに足踏み洗濯の実演が加わる。熊や狼を見張りながら川に湧き出る湯を使って足で洗濯する山深いこの地方独特の風習で、姉さんかぶりに赤い腰巻きもかわいらしく器用に足先で洗うそのしぐさはいかにもダンスをしているかのようで、奥津温泉のシンボル的光景として観光客に親しまれている。奥津荘では、この足踏み洗濯の実演を楽しみながら朝食を頂ける。

奥津荘から吉井川に沿ってしばらく歩くと、名勝奥津渓をめぐる散歩道に至る。

藤原審爾は著書「秋津温泉」のなかで、「もろもろの悩みも哀しみも、透明な不思議と深い秋津の気配にひたれば、人間の清浄な祈りとなって閑寂な四辺へ霧消してくれた」と奥津を表しているが、奥津渓が作り出す雰囲気はまさしく藤原審爾が表現する世界である。奥津渓は、吉井川の上流、大釣温泉付近から奥津温泉にかけての渓谷で、清流が花崗岩をえぐり、甌穴(おうけつ)や滝など変化に富んだ景観をつくり出している。澄み切った水が流れる渓谷の両側を紅葉が艶やかに彩り、河原までのびた遊歩道からその景色を眺めることがができる。甌穴とは、水流の渦巻きにより小石が回転し河床にある花崗岩に窪みを作り、数十万年の長い年月を使って次第に穴となり、そこに入った石が内部を削ってできあがったもので、流れの激しいこの付近にこそ見られる現象である。

渓谷は、天狗岩の奇岩、女窟の断崖、琴渕、臼渕の甌穴群、鮎返しの滝、笠ケ滝、般若寺の太子岩、石割桜の八景の名勝からなる。

奥津に入ったのはもみじ祭りも明日までという日。紅葉には少し遅い時期であったが、河原に降りて見た、奥深い渓谷に射す光条が川の流れに揺られている風景は、この旅を本当に贅沢なものにしてくれた。