渡し船のある風景・天保山

水都大阪に八か所の渡船場が現存する。

いずれも湾岸の地域にあり、日常の生活を支える重要な交通手段である。周りを河川と運河と海岸線に囲まれたこの地域では、通勤、通学、買い物などに渡し舟は欠かせない。

一方、もの悲しさを誘い懐かしさを感じさせる風景を持つところとして、観光に訪れる人も少なくはない。

そんな渡し船のある風景を楽しもうと、天保山の渡船場やってきた。

大阪には多くの河川がある。さらに多くの運河も掘られ、水上交通が発達したところで、かつて多くの渡船場があった。

その渡船場も大幅に減少し、いまでは八カ所が残るだけである。天保山渡船場もそのうちのひとつ。ユニバーサルスタジオジャパン、海遊館などの有名な観光地がある安治川の両岸、桜島と天保山とを結ぶ。

船は天保山側の乗船場に停泊し、定刻を迎えると乗客を乗せ対岸の桜島側の乗船場に向かう。桜島側で乗客の乗降を確認し、すぐに折り返すという運航形態を持つ。

天保山渡船場では、朝夕の通勤時間帯は15分から20分おきに、昼間においては30分おきに運航する。

ユニバーサルシティ駅の次が、JRゆめ咲線終着駅の桜島駅。ユニバーサルスタジオジャパンの南に位置する。ここから宇治川に向かって歩くこと10分、海遊館と大きな観覧車が対岸に並んで見える渡船場に着く。ここが桜島側の乗船場で、ここから乗り込むことにした。

定刻の15分ほど前に乗船場に着くと、20人程度が座ることが出来る長椅子を備える待合室には、すでに3人の親子が待っていた。子供が対岸の方を指さし、楽しそうに会話をしている。

気がつくと、主婦、学生らしき人など、皆、自転車を押しながら、合わせて10人程度が桟橋の入り口で待っている。もうすぐ定刻。

対岸で乗客を乗せ、こちらにやってくる船の姿が次第に大きくなる。

桟橋に着いた船から降りる人は15名程度、なかには海外から来た数人のグループが、にこやかに降りてくる姿も見える。

すべての人が降りたことを確認した乗務員が待っている乗客を招く。乗客の一人として、上下に揺れる桟橋のリズムに合わせて、船に乗る。

川の上流から下流へとS字曲線を描き、船は対岸に向かう。

川風に吹かれて、暫しの船旅を楽しむ。低音で響くディーゼルエンジンの音と床から伝わる振動が心地よい。

船内には座席はない。立ったままで乗る。川幅が広いためか風の強い日には案外と波は高く、気をつけていないとよろめくこともある。

ほとんどの乗客が自転車で渡船場にやってきて、自転車から降り、自転車とともに乗船する。対岸に降りて、またそこから自転車に乗っていく。

ここ天保山渡船場では自転車の乗客のなかに、観光客らしき親子やカップル、グループ連れなどが混じる。

大阪に、標高の低さを競う山がある。それが天保山で、高さわずか4.53メートル。

川や港などでは、河川が運ぶ土砂が川底に溜まり水深が浅くなる。そのままにしておくと、船が入らなくなったり洪水の原因となるなど、さまざまな不都合が生じる。それを避けるため浚渫(しゅんせつ)といって、底面を浚って土砂などを取り去る工事を行う。

天保二年(1831年)のこと、大阪湾に注ぐ安治川で「天保の大川浚」とよばれる浚渫が行われた。そのとき生じた土砂を積み上げてできた山、それが後に天保山という名を頂く。

当初は20メートル程の高さを持ち、松や桜などの木々も植えられ茶店なども置かれ、当時は大阪でも有数の行楽地だったとも聞く。

明治時代以降、産業が発達するにつれ工場が出来、そこから地下水の汲み上げが盛んに行われた。ここ天保山周辺でも多くの工場が建ち並び、それらの工場が地下水を利用したことから地盤沈下が進行、天保山の標高は周囲とともに徐々に下がりはじめた。その後、行政が施したさまざまな規制により今では地盤沈下は止まっているとはいえ、天保山の現在の標高は4.53メートル。

いまでは天保山の周りは公園として整備され、海遊館などの施設も開業、多くの観光客が訪れている。その公園の脇に天保山渡船場は置かれている。

かつての大阪には「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほど工業が急激に発展した時代が存在する。それを支えたのが湾岸の工業地帯で、今でも多くの工場や倉庫が並ぶ。

そんな工業の街に欠かせないのが、渡し船。この渡し船を運航する渡船場は大阪市内に八カ所、そのうちの七カ所が河川あるいは運河の両岸を結ぶ。

このあたりの河川や運河は貨物船が行き交う航路となっているため、まったく橋が架けられないか、あるいは船がくぐることが出来る背の高い橋脚を持つ橋以外は架けることが出来ない。必然的に、徒歩や自転車での往来には適さなくなる。そこで、渡し船の出番である。

その渡し船のある風景には、なぜか哀愁が漂う。